人魚と永遠の命

英国コーンウォールのミナックシアター。英国人女性ロウェナ・ケイドによって、50年の歳月をかけて、たった一人で築かれた石の劇場です。

英国コーンウォールのミナックシアター。英国人女性ロウェナ・ケイドによって、50年の歳月をかけて、たった一人で築かれた石の劇場です。

コーンウォールで人魚を見ました。コーンウォールはもともと人魚の伝説で知られた場所です。ずっと行きたかったミナックシアターでの「フィガロの結婚」をやっと見に行った先月のことでした。

個人的には3歳の頃から人魚の孤独に共感して、一人で舞台を作って人魚姫を演じておりました。人魚は箱庭療法でも、「孤独」、「自己愛的傾向」、「潜在無意識からの影響力」として、箱庭やクライアントさんによって意味も違いますがよく出てきます。人魚は女性性のシンボルとして、「秘められた美しさ」、「自分でも受け入れきれないため人には見せられない自分」、「理解されない自分」、「知られたくなく隠したい自分」も象徴していると思います。

人魚は美しい歌声に誘われて出てくると言われていますが、この日もフィガロの奥さん役の女性のオペラ歌手が美しく歌っていたのにつられて来たようでした。人魚を見たのは初めてでしたが、思ったよりずっと怖かったので、美しく人を魅惑する存在を想像していた私はちょっぴりがっかりしました。むしろとてもパワフルな存在でした。

人魚が来てすぐに、そのオペラ歌手は声が出なくなり、代わりの人が影で歌い始めました。私が人魚を見てみたいと気軽に思ったことに微妙に責任も感じて、人魚が求めているかもしれないものを何となくチャネリングしながら送るように、遠くから人魚と話をしていると気のせいかそのうちいなくなりました。人魚がいなくなるとすぐにオペラ歌手は再び歌えるようになったようでした。何と英国人の友人が、この日の主役だったフィガロ役の歌い手とロンドンで同居するかもしれないらしく、この舞台での顛末はいつか聞けそうです。不思議なご縁ですね。

人魚の目は深い海の色。その目を見ると、魂の記憶が蘇り、うまく行けばウパニシャッドにあるような覚醒した状態になり、永遠の命を得ることが出来ます。

「これら自然に現れてくる知識と、奇跡にもたらされる知識の両方を知りそれらを見分けられる者は、まず最初の知識によって滅びることを安全に通り抜け、二つ目の知識を超えることによって永遠の命を得る。」に向かって強引にその人を覚醒させると思われます。

人魚からは「奇跡にもたらされる知識」だけになるので、「自然にもたらされる知識」が備わっていないと叶いません。また、結果的にその人が具体的にどうなるかはその人次第だと思います。

人魚は天使じゃないので、人間のためにそれを行うわけではなく、そのときに相手の得る永遠の命を自分の魂に刻み付け、受け入れようとするのだと思います。人魚は永遠に生きているような、最初から生きていないような存在なのです。

IMG_1332https://leaves-blog.com/2013/04/27/ウパニシャッド抜粋私訳/

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人魚と永遠の命 への2件のフィードバック

  1. 阿蘇の尚子 より:

    初めまして、阿蘇に住む尚子といいます。
    妖精に関する証言等は多々あって、実際会った人が書いた書物等もあるのですが 人魚に関してはあまりなく、ほとんどが人魚姫のお話ばかり。。。人魚とチャネリング!!と書いてあるので、どうしてもコメントをしたいと思いました。
    私は海が好きなくせに山に縁があり、今阿蘇に住んでいます。 でも、人魚は元より ますます海に関する物や貝殻等が好きになり、貝殻を見るたびにしあわせ〜 を感じる今日この頃なのです。
    ちなみに、主人も人魚大好きです。
    もし、良かったら、もっと人魚について教えてもらえますか?
    よろしくお願いします。
    尚子

  2. leavesinstitute より:

    尚子さん、私は本などは心理学の専門書など以外はあまり読まないので、そういう集めた知識は無く、自分の実際の経験による知識に頼って生きています。なので、人魚について誰かより詳しい自信もありませんが、自分の感じていることを書かせていただきます。

    人魚は私も小さな子供の頃から大好きでした。大好きというか、魅了されていたのだと思います。人魚の持つ悲しさに共鳴し、3歳の頃には人魚姫のお芝居を、舞台をクッションや椅子などで作って一人で演じたりして遊んでいました。幼いながら孤独と悲しさに胸が潰れそうになるとき、人魚のイメージが浮かびました。イメージの中の人魚はいつも泣いていました。そんな美しい人魚を私もイメージしていたので、実際の人魚のグロテスクさには驚きましたが、人魚だって色々居るはず!と思っています。

    前世の記憶だとしたら、人間の用に手足をバタバタして泳ぐのではなく、全身を上下にくゆらせるようにすごいスピードで海だと思われるところを泳いでいた体感記憶があります。それを自然と感じるせいか、ただ練習不足なせいか、未だにこの身体でうまく泳げません。人魚のような姿だったのではないかと思いますが、鏡などで身体を見る機会もなかったので、自分がどういう姿だったのかはイメージとしてはありません。水の外に出るという勇気ある行動に出たイメージもありません。

    そうした人魚のような存在だったとき、身体から放たれるうっすらとした光で、海底でも遠くまで見渡すことができました。光の次元レベルなどを変えることで、海の様々な側面を観察しながら、そこに放つ何かを判断していた気がします。振動を光に変えたり、光を振動に変えたりも自在に出来ました。海の中に圧倒的に限られていた気がしますが、海に住む生命体と波長を合わせて、かなり深い意識レベルでコミュニケーションが出来ていた気がします。なので、会話や対話と言ったようなコミュニケーションは存在せず、意識を会わせるという感じだったと思います。そこではそうした外から見ると孤立したような状況は、孤独ではなく、「確かに存在する」ということだったような感じです。そのイメージの中では、孤独の意味が、今の人生に置ける孤独と違っていました。

    そんな感じのことはイメージできます。

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