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12/20(土)開催勉強会、「自己治癒メソッド調整&応用活用指導」内容追加のご案内!
12月5日(金)22:00~YouTubeライブ配信「つらい時をどう乗り越えるか」他
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【12/20(土)開催、オンラインスクール生徒さん向けイベント】自己治癒メソッドバージョンアップ&ホリスティックアナトミー伝授!
「アセンション後の自分のを体験とは❓」~朝倉による解説動画公開!
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Category Archives: エッセイ
8/15(金)正午「祈りの黙とう」にご参加ください!
終戦記念日の黙祷に、慈愛の光を送りながら、祈りを捧げます。
皆様もどうぞご一緒に祈りを捧げてください。祈り方をブログで紹介しております。
8月15日(金)12:00~12:01 1分間
「自分を生きる」2023年あけましておめでとうございます!
新年あけましておめでとうございます! 2000年から、すでに23年が経ち、地球と世界、人類の有り様も新しい局面に向かって、創造的に変化する年になりました。 これまでの、銀河発信、太陽発信、地球発信的な変化から、今年は、私たち人間発信の、創造が求められる変化のフェーズに入っていきます。それも、政府や、国や、グループからの発信ではなく、一人一人からの発信による創造と変化のフェーズです。 以下に、🌿自分を生きるというフォーカスについてと、🌿独自に表現する勇気について、書かせていただきました。 🌿 自分を生きる。 自分を生きることで、世界を創造でき、世界に貢献できます。だから、今年は特にそれにフォーカスして、歩みを進めてまいりましょう! 私ならどうするかを、書き綴って見ました。みなさんはどうでしょうか? ✨ 皆様の方向性を感じることができますように、この投稿を読んでくださる方に、無条件の愛と一緒に、自分に正直になれる勇気が湧くような、覚醒の波動をお送りさせていただきます。✨ 自分の気持ちと願いに誠実になる。 自分への優しさを持って、気づきに向かい合う。 自分の感じていることに気づく。 自分の感情に向かい合う。悲しみも怒りも、何にそう感じているのかも。 その感情を感じている自分を、離れて見る。客観的に自分はどう見えるか。 感情や体感は、私たちが何を求めているかを気づけるためのサインだから。 自分が求めているもの、あるいはその可能性を、一つずつ受け入れる。 でもこだわりすぎることなく、ただ認識して、手放していく。 大事なことは自然に見つかり、私達は自然に行動できるものだから。 そうしてまず、自分の喜びが、自然に見つかる。 自分の喜びが見つかったら、自分が喜べることをできるだけ選ぶ。 自分が喜べる人生ができていく。 自分の使命が果たせる人生になっていく。 自分が生きられる人生になっていく。 独自な道、一人で歩き始める道もある。 新しく生まれるもの、まだ世界にないものは、 他者に受け入れられにくく、時には自分でも自信がない。 でも、自分が生きるための道がそれだと思う時には、その道を歩いてみよう。 自分の道は、時としては、筋が通らない直感のようなものでもある。 数学で最初に答えが現れて、それを証明していくときのように、 筋は後から通せばいいのだと思う。 一番大事なのは、「これだ!」と感じた自分の直感。 それがちょっと違っても、その方向に歩き始めたら、 もっと強い確信が持てることにも出会えるようになる。 自分の直感に筋を通すこととは、世界を創造すること、 そして、現実を創造すること。 どうすればいいかなんてわからない。 でも、歩き出してみよう。 世界と現実を、自分の直感に向かって創造するとき、 まだない価値からの無価値感や、筋が通らないことへの無明の中で、 歩き続けた時、 … Continue reading
自然からの抱擁
この素敵な、自然からの愛と祝福を皆様とも共有したいので、近いうちにヒーリングイベントを企画してみたいと思っています。 Continue reading
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サイキックリーディング、占い、カウンセリング
Facebookで、ロスにあるラジオ局が世界的に、ヒーラー、ミディアムなどの仕事をしている人のインタビューを収録したいと募集しているのを見かけました。そこにコメントで他のラジオ局も募集広告を載せてきていましたから多いのですね。イギリスでも、ラジオ曲とかテレビ曲から、スピリチュアルの番組に出ませんかみたいなメールが、7−10年くらい前は来ていました。私は興味が無かったので、友人に紹介したりしていましたが、今も多いのですね。 私の周りの会計士や弁護士も、私に影響されたと言って、そういうセッションなどを受けるようになっているようです(私は知り合いには提供しないので)。メディアなどから置き去りにされたように生きている私ですから、世事に疎いと言うのもありますが、流行っているのですね、スピリチュアルなこと。 考えても、待っても、答えが無いものや、悩みすぎて分からなくなったとき、直接的な答えを与えてくれるようなサイキックリーディングや占いを頼りたくなることってありますよね。「ただの直感」だから、「自分を良く知らない人が話していることだから」、「事実じゃない」から、参考に聞きやすいのかな?でも、混乱しすぎると他者に依存しますから、「それが絶対的な正答!」って思い込みたくなるときもあると思います。 サイキックリーディングや占いって、不安な人が増えるほど、需要がでる仕事なのかもしれません。 どのような情報も、私達が自分の中心、中核で感じていることを、確認することにしか役立たないと思います。そこで感じる言葉だけが、心に響いて来るのだと思います。ただ、あまりにも自分を見失っていたり、自信がないと、そうじゃないことも真に受けてしまうことがあるのかなと思います。 そういうときには、瞑想やフォーカシングが役立つと思います。でも、そういう気分になれないほど疲れていたり、落ち込んでいたりする時には難しいですよね。心も身体も疲れすぎて、自分で責任がとりたくないって、思っていたりすることもあるでしょうし。そう言う時には特に他者に影響されやすいですよね。そして影響された結果さえも、他者のせいにしてしまうんですよね。そうして自分を明け渡してしまいながら、怒りだけが貯まって行く。悪循環です。 カウンセリングは、こういうとき、すぐに答えを提供してはくれませんが、クライアント自身が答えを出すことを助けることを目的としています。特にヒーリングを受けながらのカウンセリングはすごく有効です。 ヒーリングで受け入れる準備が整っている時に、適切なカウンセリングを受けられたら、問題を乗り越えながら、意外とサクサク進めることがあります。サイキックやエンパスで敏感にこちらの抑圧している感情や気持ちも察してくれながら提供できるセンシティブで賢明なカウンセラーさんがしてくれるときには、気づきも早いです。 リーブスで、カウンセリングスキルを学ばれた方は、カウンセリングに関しては、かなり高度なスキルを身につけられています。ヒーリングはカウンセリングスキルでは教えていませんが、カウンセリングスキルをお受けになった方のほとんどが何らかのヒーリングを身につけておられます。エネルギー的にも自分にとって安心できる物を持った人から、お受けになることをお勧めいたします。
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貧しかった楽しい思い出
今思うと、収入が全然なく、考えてみればすごく節約していた時期が何年も、確か日英あわせて9年ほどありました。お金がなく、収入がないと、日々の生活を創造的に工夫しないと成り立って行きませんし、お金の使い方はよく考えるようになるので、自分の行動や方向性に関する意識が高まり、何でも「よく考えて選ぶ」ようになります。 私はその頃は、日本ではボランティアでスピリチュアリズムの勉強会の企画やボランティアで応用物理学の研究所に所属したりしていて、物価の高いロンドンでは、小さな子供を抱えて2つもの大学で大学院生をしながら暮らしていました。私はボランティアの仕事ばかりを3−4件ほどしていて、出費ばかりで何も入って来ず、会社員時代の貯金を切り崩して暮らしていました。途中から当時の夫が仕事を見つけて働き始めてくれましたが、それも手取りが10万円ちょっとしかありませんでした。そんな中でも当時の夫は、私が学ぶための出費は快く受け入れてくれていました。私は自分のセラピーも毎週受けていましたし、勉強は増えるばかりでお金は出て行くばかりでした。それでも、貧しいから安く受けられる学校のコースなどでさまざまなセラピーやアートについて学ぶことも出来ました。それに必要なお金は入ってくるという、妙な宇宙への信頼があり、不安はありませんでした。 住んでいたのもボロボロのアパートで、天井が今にも落ちてきそうなところでした。もともとそのボロアパートは、何とか暮らしを成り立たせようと考えてくれた当時の夫が見つけてきてくれた物件でした。あまりにも酷い状態と汚さに、最初見た時には愕然としましたが、天使が祝福してくれて見つけてきてくれた物件だったので、そこに決めました。大きなバス通りにある物件で、「こんな汚いところに住んでいる人が居るんだなあ」とバスの中から見ていた、まさにその家でしたので、本当にびっくりしました。 当時の夫が安い白いペンキで家中の壁を塗って、変な色だったアパートを真っ白にしてくれました。壁やドアに天使や女神などの壁画を描いてあちこちに素敵な空間を作りました。あまりにもボロボロだったので、大家さんは何をしてもいいと言ってくれ、すごくワクワクして改造していたのを思い出します。家具を買うことを思いつかないほど狭かったし、節約もあって、廃材などから洋服を収納する家具を作り、子供のおもちゃを片付ける棚は、近所の工事現場からもらってきた不要木材などをリサイクルして作っていました。浴室は階段の下の三角の窮屈な隙間にバスタブが置かれている不思議な空間で照明もなかったので、ロウソクの明かりで入っていました。拾ってきた古い鏡をアレンジして、バスタブ近辺はライラックの薄紫色に塗って、ロウソクの明かりと古い鏡の反射で幻想的な空間を作って楽しんでいたのを覚えています。 あまりにも住居が狭かったので、日本から持ってきた少ない道具や服さえ入り切らず、引っ越し当時は、古いソファーの上しか場所がないので、当日はそこで寝たのを覚えています。荷物を処分するのにも、運び出す車もないし、捨てるのも勿体無いので、家の前で強引にガレージセールらしきものを行いました。何と、今リーブスインスティチュートの事務局をしてくれているさつきちゃんが、当時からずっと友達で、その不思議でおかしいガレージセールを手伝ってくれました。思い出すとおかしくて笑えてきます。殆どをその後近所の教会に寄付することができました。不要品があっても、どなたかが活用してくださるそうした仕組みがあちこちで見つけられるのは、イギリスの素晴らしいところです。 朝早くからのボランティアは、学校や病院、慈善団体でのスクールカウンセラーやヒーラーとしての活動でしたが、学校前の朝の時間に息子を預けて学校に連れて行ってもらうのをアレンジするのにお金が掛かったし、放課後も夕方近くまで預かってもらわなくちゃ行けないこともあり、お金が掛かる以外に、息子には寂しい思いもさせました。しかも当時のロンドンでは美味しいものを買うことが出来なかったので、毎日お野菜や素材からお夕飯などを作り込むため、その時間もかかりました。仕事で疲れた上で、重い買い物の荷物を持って帰り、料理し、子供の世話もする。若い体力でもすり減るほど大変でした。でも、このボロアパートは創造的に、息子との楽しい空間も作れた気がします。 唯一部屋らしかった小さな寝室に、居間を兼ねた食堂のスペースがあっただけだったので、寝室は息子の遊び部屋になりました。家族が工夫してその部屋で寝ておりました。息子の遊び空間を作るため、二階建てのベッドは購入しました。へこみに小さなドアを取り付けただけで中に簡単な棚があるだけの、唯一の収納の下の段は、収納せずに簡単なライトを取り付けて息子の「想像空間・隠れ家」にしました。息子の部屋=唯一部屋らしかった寝室は日当りがよく、窓辺の小さなコーナーに木製の小さな子供用のテーブルセットを置いて、一緒に朝食をとったり、絵を描いて遊んだりが楽しかったです。毎週遊びにくる息子の友達は大きな家に住む子でしたが、波動がよかったので、「きもちいい」と喜んで遊びにきてくれ、二人はよくその「想像空間」をタイムマシンにして、さまざまな場所や時代に出かけては物語を作っていました。息子の友達は、ご両親が劇作家やアーティストばかりだったので、遊びがとても創造的だったのも素敵でした。 息子の窓から出られる小さなテラスもどき(笑)の空間には、下に住居のあるスペースが続いており、そこの大家さんの許可を得て、15畳はあるほど広いルーフガーデンを作りました。写真の私が立っているのは、窓から出たところです。とっても日当りがよかったので、公園から拾ってきた種から、色んな花を育て、彩り豊かなお花が満開の庭になりました。息子と毛布を引いてピクニックなどをしている横を、ロンドン名物の二階建てバスが通り、皆が手を振ってくれたのが、ちょっと恥ずかしかったけれど、とても素敵なお庭でした。ルーフガーデンの隅っこにあった古い木箱の中で、息子が保育園から持って帰ったトマトを植え替えると、日当りがいいので、どんどんトマトがなり続けてくれたのも楽しかったです。テラスもどきでは、なんと友人達とバーベキューまでしました、笑。 学校で学ぶ以外にお金を使う時間や余裕が全然なく、洋服も慈善団体からの古着を数百円で買ったのもしか着ていませんでしたが、かえって気楽でした。食材も夕方近くになってしか買い物できなかったので、お安くなっていたのを買って調理しており、今考えるとすごく節約になってました。 もともと実家でも節約していたし、大学時代も奨学金は貯金して(実は銀行に行くのが面倒だっただけなのですが・笑)、バイト代で工夫して暮らしていたので、節約は得意だったと思います。 貧乏って大変だと思うんだけど、やむを得ずそういう状況になると、私のような人は興奮して元気になります。工夫が楽しいし、少ないお金で生きて行けると不思議と安心します。人に助けられたり、人を助けたりの助け合いも、どんどんおこります。砂漠の民じゃないけれど、いつお金がなくなってもやって行けそうな私です、笑。
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私の永遠
今までは、「プロセス重視」で、「学びと個々の能力の独自開発、ライトワーカーの覚醒」にフォーカスした講習を紹介してきました。 これまでの講習に実はバージョンアップは無いのです。 私が紹介する講習は、常に「完璧」で修正の余地なく完成されています。むしろ使えば使うほど新しい発見があり、如何に「永遠に綿密な配慮のもとに」開発されているかを味わっていただけるのです。そうして直す必要のあるところは全く思いつかないほど、完璧に作ってきました。15年前に開発し教え始めたワークを見ても、今でも感動します。(自画自賛) ただ、これから私は、方向性を変えて行きます。 それは以下のような地上レベルでのプロセスのシフトによるものです: 「ライトワーカー育成」:シフトへの準備 ↓ 「人類のアセンション」:シフト 今回の講習から、この新しい4つのリーブス講習から私が目指しているのは、 一人でも多くの方を自由にし、 一人でも多くの方を癒し、 一人でも多くの方が愛と豊かさを感じながら生きて行けるように、 一人でも多くの人を助けること。 それに尽きます。 だから私はもう怖がらず、あらゆる問題に創造的に対処する覚悟で、表に出て行こうと思っています。 そういう新しい方向性の中で、新しい次の4つの講習を開発しました。 新・サイキックプロテクション® 新・マニフェステーションヒーリング® 新・サイキックサージャリー® 新・気功鍼® このまえにリーブルという講習を案内してきました。それは高次元意識開発を行わないバージョンでした。準備ワークも要らないし、どのような人が学ばれてもワークは「美しく、完璧に」行うことが出来るように作られています。今回のは、それとは違い、準備ワークが必要な高次元意識開発が含まれるバージョンです。 これらは以前の高次元版の講習よりも高い意識次元開発を含んだ講習でありながら、以前よりお安く提供できています。それは以前の講習のように、個々独自の封印解除・能力開発をあまり行わず、教えるテクニックが確実にできるようになることにだけフォーカスした教え方に変えているからです。そのため準備ワークの日数もかなり短くなっています。 そして今度のバージョンは意識次元が開きにくい人でも、6−8次元というかなり高い意識次元が部分的ではありますが、開いてきます。これにより、理解・認識能力だけでも、相当上がります。実際に、今まで6次元意識で指導していたことは、8次元意識では半分の時間で完璧に理解してもらえた実績があります。それも20名近くの人に行っての結果ですから、信頼出来ます。 この新しい講習は、受けられるようになる方はこれまで以上に増えるでしょう。このワークを受けられる人も今まで以上に増えるでしょう。旧バージョンはこの7年間で約1,000名の方がお受けになってくださっています。 今度のバージョンは、もっと多くの方にお受けいただけるかも知れません。そして、より多くの方が、癒され、自由になり、楽になり、幸せになってくれることを心から願っています。 今後もこうした開発を手がけて行きたいと思っていますが、私が過去に開発してきた講習やワークは、それはそれで完璧に完成した技であり、バージョンアップが必要な訳ではありません。どうぞこれからもずっとご活用いただければと思っています。 どちらにしても、これからも「永遠に完璧」で、「使えば使うほど素晴らしく」、「永遠に細やかな配慮に気づき続けられる」ようなワークを提供してまいります。どうぞよろしくお願いいたします。 最後に、錬金術と魔術の違いは、錬金術は「永遠」です。
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シャーマンの覚醒、菩薩について
この年末年始をパリのディズニーランド近辺で過ごしてみて、遠隔ワークも全てお休みで休むつもりだったその四日間をどうして、そこで過ごすことにしてしまったのだろうと思いました。結局四六時中、どこに行っても仕事道具を身につけて、シャーマンとしての仕事をしていたのです。ちょっとでも、それらを外して休憩しようとすれば、とんでもない問題が起こりました。問題は起こってしまったので、すぐに仕事モードに戻り対処しましたが、シャーマンという仕事について改めてその厳しさを感じました。それで、ロンドンの自宅に戻ってきてすぐに、最近シャーマンについて、ツイッター(@leavesinstitute)に書いてみたのでした。 「シャーマンに休みは無いのか…。というよりも、それは常に自分という存在の一部なのだから、生きてるってことだけど。超常現象が苦手なのも自己否定。」 「シャーマンには霊的権限があるゆえの責任・責務がある。それらを執行するための霊的権限と能力なのだから当然なのだけど。生来のシャーマンが、その責任と能力と宿命に圧倒され悩みながらそれを受け入れて行くことは多いと思う。反対にシャーマンに憧れ、修行と訓練によりなる人もいる。」 「シャーマンとは一人の人ではない。全てと運命と人生をともにして、全てと一つである存在だ。有り様としては自然であるが、本人以外の様々な存在が、シャーマンという能力者を協同して存在させているところが特徴的だ。そして地上の全てのシャーマンが同じ大地で常に繋がっている。」 「シャーマンである自分は、人間の自分でありながら、自分とは別に存在し、人間の自分に対してもその権限と能力を行使できる。」 「シャーマンのヒーリング能力は、エネルギーによるものではなく、これはシャーマンが、その霊的権限をもって、相手と運命を合わせ、寄り添いながら、宇宙軸にそった前進に導く「霊的導き」によって起こる。」 「そのため、導かれる人は、抵抗するほどエネルギーを消耗し、苦しくなる。エネルギーによるヒーリングや、変化のための介入がある方が楽である。」 シャーマンの仕事って、本当に全力で向かわないといけない仕事です。また、シャーマンである人の人生そのものです。だから、お休みもないですし、常に真剣であり、日々成長するために謙虚でなくてはなりませんし、無私・献身的でないとやって行けないのです。もちろん、それが幸せではあると思いますが、楽な仕事ではありません。シャーマンとしての権限が大きければ大きいほど、責任も重くなります。シャーマンには、色んな霊力のレベルがあり、仕事の内容も多様であり、覚醒も多様です。リーブスインスティチュートのホームページのジャーナルの「シャーマン」のページに多少の説明を付してあります。 私は生まれながらのシャーマンです。もう10年以上前に心理学の勉強を本格的に始めるようになってから、スタニスラフ・グロフというトランスパーソナル心理学者による「スピリチュアル・エマージェンシー」という本や、ミルチャ・エリアーデという宗教研究家による「シャーマニズム」というシャーマンの研究書を読んで、あらゆる民族と文化で見られる伝統的なシャーマンのイニシエーションを、私もまた精霊によって受けて来たことを知り、安堵しました。それらは、説明すると気違いだと思われるような、強烈な超常現象を伴うものでした。私は、そういう超常的なイニシエーションの過程を辿るにあたり、素晴らしいスピリットやマスターだけでなく、適切な人達に囲まれ、遠隔地から当時相当有名だった生きた聖人のサポートを受けることができた、幸運なケースでした。そうして、様々な段階を経て覚醒していった天然シャーマンが私です。シャーマンになりたいと思っていた訳ではなく、何とかプロにならずに人知れず存在したいと思っていたくらいでした。 「あなたなら私を救える」という、理屈の通らない直感によって私を訪ねてくる人が、子供の時から時々ありました。そしてその人達にとっての「救い」を受け取ると、親友から他人になったかのように去って行く人がいるのが悲しくもありました。20歳を過ぎて、段階を経てさらなる覚醒が近づいてくるに従って、癒しを求める存在が日々訪れるのに困惑しました。その数は、後の段階になって行くほど、増えて行きました。私のさらなる覚醒を望んだのは、もちろん人間の私自身ではありませんでした。癒しを求める多くの霊、そして私を今はサポートしている多くのスピリットによって、私は導かれてきたのです。覚醒の段階が進むにつれ、やっと分かって来たことは、彼らを助けることは、私を助けることだということでした。私をシャーマンとして定めようとする存在や宿命を拒否するかのように、自らの人生を終わりたかったこともありましたが、その宿命を生きることが、より真実に深く生き始めることだったのです。それはもちろん、そうなるまで分からないことばかりでした。私にとって、シャーマンとして、あるいは自分に与えられた能力や使命を受け入れて生きることは、私が人間になるにあたり、「人生の喜び」として自分が定めていたことを行うことでした。それは、覚醒していくにしたがって、より明確に私を幸せにしていきました。今も、これからも、足りない私の学びの中で、その覚醒が続いて行くと思います。 通常、シャーマンという存在は、社会にとって大きな役割を担うために、その覚醒には多くの存在が関与するものです。シャーマンとしての覚醒にそれほど多くの存在が関わり、かつ幸運だったことには、私の役目の大切さも感じられました。それを受け入れるのに、様々な癒しの手法を学んだり、セラピーにかかったり、様々な勉強を積みながら、ほぼ10年を費やしました。イギリスで同時に二つの大学院で学びながら、その他のカレッジや専門学校に通って、様々な学びを深めたのです。自分に起こっていること、自分の使命、自分が何者であり、自分が知っていることがどういう役に立つのかを知るために。 そうしながら、すでにプロのシャーマンとしてご活躍されている方々を、指導したり、お手伝いしたりもしました。世の中のシャーマンがいかに苦労しているか、そしてそれ程の霊力も叡智も持たないままプロとして生業にしている人がいかに多いかを痛感しました。危険な目に遭いながら、身体と家族を犠牲にしながら、霊障と戦っている様々な分類のシャーマン。日本各地の様々な名前で知られる伝統的なシャーマン達や、浄霊で知られるお寺の僧侶達、または祈祷師や霊媒師。家代々の継承でその仕事を受け入れている人達以外に、自ら感じるシャーマンという宿命に向かって命をかけている人達、それを覚醒することによって初めて「生きる」ことが可能になる人達にもまた多く出会いました。日本だけの話ではありません。 シャーマンとしてしか生きられない人達がいます。他のことをしてもうまく行かず、絶望的な身体的症状に悩まされたりもします。そう言う人は素質や宿命を担って生まれて来ていることが多いです。でも、素質や宿命がなくても、シャーマンに憧れ、シャーマンになりたい献身的な人達もいます。シャーマンの厳しさ、いかに時間とエネルギーをさく必要があるかなどを、理解した上で、その道を歩む人達にも出会うようになりました。シャーマンの厳しい宿命を担っている人から見ると、そういう献身的な人の意図が理解出来ないこともあります。シャーマンにならなくても、生きて行けるのに、シャーマンに覚醒することを選ぶ人達。 私の指導する方法では、シャーマンとして覚醒し、安全に確実に人を導き助けることが出来るようになるだけでなく、その人が人間として日々覚醒し、人間として人を導けるほどの本物の叡智を自分の真実と出来るように、覚醒した時から修行が始まります。中途半端な気持ちでなるものではありません。シャーマンとして生きて行くのは大変です。でも代え難い喜びもそこにはあります。 私にとって、シャーマンの仕事は、菩薩との出会いでもあります。菩薩とは、自分の苦しみの経験から同じ苦しみを持つ人を救いたいという誓願によって「生命」を得た存在です。「生きる」ことへの新しい目的を見いだすことでもあります。危篤で死ぬ寸前の人に、「菩薩」を覚醒することで、「生き返る」こともあるほど、パワフルな覚醒です。一度死んで生きるというのは、菩薩になるということでもあるのではないかと思うほどです。 私はある霊を導いたとき、その霊が菩薩になる時に語った言葉に激しく感動して、そういうお手伝いができることが私の生命の喜びだと知った時、プロとしてシャーマンをやって行くことにしたのです。それは私のご先祖に当たる存在でした。つまり、生きている存在ではありませんでした。多くのシャーマンは覚醒の時に、先祖や関係するスピリットからギフトを受け取ります。今思えば私もそうだったのだと思います。 その霊は、恐らく戦って死んだ武士達だと思われる無数の霊を結界に入れて束ねていました。私はその結界を解放し、その霊達を浄霊したいと思っていました。その霊との長いやり取りがあり、とうとうその霊は自らの「愛」に覚醒しました。「自分にも救うことができるのなら、救いたい」という思いと愛が、その存在を自ら解放し、結界の中の全ての存在を癒し導いたのです。私ではなく。 目の前で、それが起こるのを目の当たりにし、その生々しい言葉と変化と覚醒の感動を見て、私は自分は助けるのではなく、助けていただいているのだ。自分は導くのではなく、導かれているのだと確信しました。私は人間の中の愛に癒されたい、人間の中の愛に豊かにされ続けられたいと、強く望みました。私の見解や経験を誰かに否定されても、この愛は否定することができないと確信することができたのです。 つまり、恐れを手放せたのだと思います。そしてその霊は、菩薩になったのでした。
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レムリアのその後
2013年10月14日月曜日午後14時前後より、日本の八ヶ岳で、レムリアの神殿が召喚され、「青い石の儀式」が行われました。 この儀式のために、 レムリアの神殿が八ヶ岳に降り、そこで青い石の召喚が行われました。 この儀式は、地球が次のアセンションフェーズに入るためのサポートとして行うもので、レムリアが地球に重なって行くフェーズを始める儀式でした。 この儀式でレムリア神殿は一旦崩壊しました。2005年にレムリアの再現を果たした青い石は、地球の魂の場所である地殻に納められ、現在は地球と重なる形に、レムリアというユートピアの元型自体が、再形成されていっております。 再形成は、地上の幾何学と一部の錬金術の礎となったエノクによる幾何学で知られる、レムリアの幾何学によって、自発的な生成以外の刺激を与えられています。レムリアという地上に生命体が生まれる前からの叡智の集合体の始まりから、古代文明や人類の当時からの経験、情報や叡智は、青い石のアストラル体に集約されていました。それも今回の儀式で集約し、青い石の本体に統合して、地殻に納めています。なので、そうした情報や叡智も、青い石の発現の活動と地球の変化に影響を与えていっています。古よりのレムリアはこうして、新しくなる地球の中で生きて行くのです。 地球以外の星でのアセンションのフェーズに関わった人の記憶にあるように、こうしたブループリントとなる文明そのものは、神官の記憶の中に記憶され、再現が可能になっています。それは映写機で映画を見るように、私たちの意識の中に再現できるように集合無意識に影響を与えます。そして、私たちの必要によっては、現実化することが出来る状態で保存されているのです。なので、古くから馴染んだレムリアが完全に喪失した訳ではありません。ムーの崩壊、レムリア大陸の喪失の時同様に、「レムリアの喪失」という経験を一部の人に与えながらも、今回2005年に起こったように、再現出来る可能性を保っています。 これからは、私たち一人一人がレムリアとなり、愛と調和の文明を私たち一人一人から発信して行くようになります。それがアセンションの過程でもあります。 リーブスでは、その過程の一部として、永久普遍の生命の記憶を取り戻して行く方々に、「真・レムリアンアセンション(仮名)」という新ワークを通して、その生命の有り様を取り戻すお手伝いをしていく準備を進めています。ご縁のある方に繋がりますように。
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責任、真実、仕事、愛、幸せ
マスコミや政府系組織の情報操作などが表立って来ていますね。でも、これらはよく見れば、操作されているのは明らかなことが多かった気がします。こうした不正が原因で苦しんでいる人がいることが分かったら、それに関して行動するのはもちろん必要ですが、こうした状況で彼らを否定的に責めたり批判する事には、私はそれほど意味が無い気がしています。たとえ誰が何と言っても、自分の「真実」を貫くべきだと思うからです。 そのためには当然ながら、貫くべき「自分の真実を見いだす」ことが必要になります。それは中々大変なプロセスで、見つけられるものも「これ!」といったはっきりした具体的なものではなく、「感覚」のようなとらえどころの無いものかもしれません。 具体的な何かとしての自分の真実は、むしろ「事実」に近いものであり、「いま、ここの私」にとっての真実から外れやすく、それゆえ壊れやすく弱いです。私達が常に変化しているからです。 そうした弱い真実には、私達の「守りたい」という気持ちが働きます。ですから、それ以外を否定したいと言う衝動が起こりがちです。かといって、それ以外のものを真実じゃないと否定する事で私達の真実を守ることはできないのです。「自分の真実」はあくまで、自分にとっての真実でしかなく、他の人の真実はそれと違っていても尊重する必要があります。 「自分の真実」が常に変化する自分の一部として、確かでありながら、捉えるのが難しいものである限り、私達には常に、「真実」という確信に基づいた、ある程度の無知の上での受容が必要になります。他の方の真実を尊重できることは、そうした自分自身の真実の尊重ができる能力に基づいているのです。つまり他者の真実を尊重できないとき、自分の真実に確信を得ているとは思えません。 世界は自分の一部であり、自分は世界の一部なのです。 「自分の真実」を体得することができたとしても、それに基づいて、自分自身が存在している世界と社会、そしてそれらの自分にとっての意味を捉え直すには、忍耐強い信念が必要だと思います。自分の信念やビジョンや意図の源が自分であることが難しい世界の中で、私たちは常に試され続けながら、信念を強くして行き、それが誓願とひとつになって私たちの一人一人に独自な目的を達成するのです。 宇宙に繋がり、その流れに乗って生きると同時に、世界の一部としての「自分の責任」を明確にして行動しなければ、それは達成できないと思います。 「自分の責任」を全うする事は、喜びあることでもありますが、勇気のいる事でもありますよね。「自分の目的」同様、「自分の責任」が明確になっていない状況って多いと思います。それは私たちが社会的な投影の中で、自分じゃない誰かの「期待」に答える必要性を感じながら生きているからだと思います。期待に応えていないと愛されない・受け入れられないという恐れを超えるには、「自分であり、自分の目的を達成して行くことでも必要とされる・愛される」という経験が必要ですよね。 スピリチュアル、つまりそうした目に見える社会を超える真実、「自分の生まれて来た目的」、「投影がはがれ落ちた後のこの世界の真実」に繋がっていくことで、それが見えてくるものではあります。しかしながら、その「スピリチュアル」でさえ、誤解され、都合良く利用されているのをよく見かけます。 形あるものにしがみつかず、「無に全てを見る」ことが心の平安になるといいのですが、それには「無」への恐れを乗り越えられるほど、自分への信頼が強くなくてはなりませんし、簡単ではありません。 でも、それができたら、自分の生きている世界はこの瞬間から変えられると思います。自分にとって、この世界が変わるだけにも見えますが、相対的に変わって行くのだと思います。 私にとって、「自分の責任」は「生きていること」で、「生きていること」は「自他への愛を持って奉仕していること」、「奉仕していること」は「社会の一員であること」です。 「奉仕」しているつもりでも、本当に相手の役に立っているかどうかを知ろうとすることが重要だと思います。時には失敗しながら、その失敗から学び、さらに輝く時、それは機会とさえなります。さらに役立てるように自分を成長させることは喜びとなります。 仕事をしていることは、私には生きている事であり、仕事をしないことは死ぬのと同じ事になります。自分にとって仕事と感じられる事をしていないときには、私は悲しくなりふさぎ込みますからすぐにわかります。そうしたら方向転換が必要です。方向転換の度にゼロになるのが通常なので、最初のうちは勇気がいりますが、慣れてくると分かってきます。自分が生かされている事が。先人の言葉や経験に励まされながら、でも見た事も無い場所を、時に不安になりながらも、駆り立てられるように歩む進むうちに道が出来ます。 自分の道をまっすぐ歩く中でも、家族や周囲との愛ある瞬間の連続に人間として支えられ、喜びと感動と感謝の中にあってこそ、価値ある仕事として見いだしながら励めるものです。
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風景の紋章学
日本の大学では英米文学を専攻し、英文学で、高校時分からご縁のあった作家で、ローレンス・ダレルの「アレキサンドリア四重奏」という本を選んで卒業論文を書きました。卒業論文のタイトルは、「風景の紋章学」でした。とはいえ、十分な研究が出来ていたとは思えず、書きたいことも書けてなかったと思います。「アレキサンドリア四重奏」自体は、ひとつの現象が、複数の人達にとっては全く違う事実として経験され、それがその人の真実となって行く様が書かれている小説だったと思います。4人の人から見た事実が4部作で描かれており、それが四重奏となって、ひとつの現象を表現して行く所を読者に、見いだしてもらうような作品です。コンサートでの音楽表現が、鑑賞者をもって完成するような感じなのです。でも、「風景の紋章学」で論じたかったのは、実はそこではありませんでした。 小さいときから、物事のエッセンスや本質を捉えることばかりにフォーカスしていました。それを通して、全てが同じでありひとつであることもわかりました。その次には、どうして同じであるものが違って見えているかの考察と観察を巡らし、濃度の違いなどに気づいたりしながら、哲学的とも言える考察と実験と観察を繰り返していたのです。濃度の違いに気づいたのがやっと高校時代でしたから、私が求めているものを、創造的に表現できるようになるには、人生の観察もまだ十分ではなく、物事の見方も直観的で、表現も全て詩になってしまっていました。私の直観などによる内的・霊的知識が私の人生経験に先行してしまっていたので、現実性を書いていたような感じです。 そんなわけで、当時の卒業論文は大変稚拙なものでしたが、「風景の紋章学」というタイトルで論じたかったことは、簡単には、人間はその風景から象徴的、つまり一人一人の心象に呼応する影響を受けながら、自分としての顕現や表現のあり方を変えるということでもありました。これは、天文道や占星術でも扱うような、星々からの影響や天体での位置が、その存在の有り様や創造過程に大きな影響ともたらすという形でも説明できるものも含まれていると思います。そうした波動的・引力的あるいは霊的な影響だけでなく、視覚的にも、聴覚的にも、嗅覚・味覚的にも、体感的にも、触覚的にも、その「場所」で感じているものという、主体的な経験が含まれています。私の場合、特に風の体感、目に見える色や光景、心象、香りなどが総合的に、その場所の私を作って行く感じがあります。もちろん、その人の個人的経験ということにはなるのですが、どういう場所にいて、どういう「風景」の中に存在しているかというのは、その人の自己表現にとって大きいと思うのです。 自分の表現が自分の求めている通りになれる場所にであったとき、その場所を求めて止まなくなるという状態が起こります。他の場所がだめというよりも、求めている場所にいる自分の表現状態、存在状態、体感を欲して止まない状態が、その場所にいられないことで消耗して行くの感覚は、恋にも似ているかも知れません。まるで完全な自分として存在していないような状態。旅って、そういう自分を捜すのにも似ています。気持ちいい自分を見つけた時、その場所に十分いることで、他の場所に行ってもその自分を作ることが出来る状態を学び切って、そういうあり方に覚醒するまでは、その場所にいる必要を感じるものだと思います。そして、そういう風に覚醒したときには、それはそれで寂しいものなのです。まるで、恋にさめるように、恋していた存在が自分自身であったと悟るときのような孤独感。それは、自分が完璧であることを知る瞬間に似た孤独です。 写真: ウェールズ国定公園内の運河にて