日本の大学では英米文学を専攻し、英文学で、高校時分からご縁のあった作家で、ローレンス・ダレルの「アレキサンドリア四重奏」という本を選んで卒業論文を書きました。卒業論文のタイトルは、「風景の紋章学」でした。とはいえ、十分な研究が出来ていたとは思えず、書きたいことも書けてなかったと思います。「アレキサンドリア四重奏」自体は、ひとつの現象が、複数の人達にとっては全く違う事実として経験され、それがその人の真実となって行く様が書かれている小説だったと思います。4人の人から見た事実が4部作で描かれており、それが四重奏となって、ひとつの現象を表現して行く所を読者に、見いだしてもらうような作品です。コンサートでの音楽表現が、鑑賞者をもって完成するような感じなのです。でも、「風景の紋章学」で論じたかったのは、実はそこではありませんでした。
小さいときから、物事のエッセンスや本質を捉えることばかりにフォーカスしていました。それを通して、全てが同じでありひとつであることもわかりました。その次には、どうして同じであるものが違って見えているかの考察と観察を巡らし、濃度の違いなどに気づいたりしながら、哲学的とも言える考察と実験と観察を繰り返していたのです。濃度の違いに気づいたのがやっと高校時代でしたから、私が求めているものを、創造的に表現できるようになるには、人生の観察もまだ十分ではなく、物事の見方も直観的で、表現も全て詩になってしまっていました。私の直観などによる内的・霊的知識が私の人生経験に先行してしまっていたので、現実性を書いていたような感じです。
そんなわけで、当時の卒業論文は大変稚拙なものでしたが、「風景の紋章学」というタイトルで論じたかったことは、簡単には、人間はその風景から象徴的、つまり一人一人の心象に呼応する影響を受けながら、自分としての顕現や表現のあり方を変えるということでもありました。これは、天文道や占星術でも扱うような、星々からの影響や天体での位置が、その存在の有り様や創造過程に大きな影響ともたらすという形でも説明できるものも含まれていると思います。そうした波動的・引力的あるいは霊的な影響だけでなく、視覚的にも、聴覚的にも、嗅覚・味覚的にも、体感的にも、触覚的にも、その「場所」で感じているものという、主体的な経験が含まれています。私の場合、特に風の体感、目に見える色や光景、心象、香りなどが総合的に、その場所の私を作って行く感じがあります。もちろん、その人の個人的経験ということにはなるのですが、どういう場所にいて、どういう「風景」の中に存在しているかというのは、その人の自己表現にとって大きいと思うのです。
自分の表現が自分の求めている通りになれる場所にであったとき、その場所を求めて止まなくなるという状態が起こります。他の場所がだめというよりも、求めている場所にいる自分の表現状態、存在状態、体感を欲して止まない状態が、その場所にいられないことで消耗して行くの感覚は、恋にも似ているかも知れません。まるで完全な自分として存在していないような状態。旅って、そういう自分を捜すのにも似ています。気持ちいい自分を見つけた時、その場所に十分いることで、他の場所に行ってもその自分を作ることが出来る状態を学び切って、そういうあり方に覚醒するまでは、その場所にいる必要を感じるものだと思います。そして、そういう風に覚醒したときには、それはそれで寂しいものなのです。まるで、恋にさめるように、恋していた存在が自分自身であったと悟るときのような孤独感。それは、自分が完璧であることを知る瞬間に似た孤独です。
写真: ウェールズ国定公園内の運河にて